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2007年10月29日 (月)

龍神酒造。

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先週、土曜日のブログでお話したように群馬県は館林市にある、龍神酒造さんを見学する機会を与えて頂いた。
ブログ仲間の“新宿会”のメンバーのお一人が、ここの有名な杜氏さん(酒は、酒精、麹、米、そして水を加えて醗酵させて出来上がるが、その調合をする人。大変、難しい仕事で、酒の良し悪しは、勿論先程の材料が重要であることは言うまでも無いが、この調合加減も大切なのである。)をご存知で、総勢8名でお邪魔した。
“え、群馬県にそんなにいい造り酒屋があるの?”と思う方も多かろうが、ここの酒は凄いぞ!
江戸時代初期からの創業で、もうかれこれ400年経つそうな。
龍神酒造さんでは、大吟醸や純米吟醸は、四国産の山田錦という米を使うが、次に大事なのは何と言っても水である。
“灘の生一本”は、“宮水”と言われる西宮市から神戸市に掛けての旧海岸地帯の井戸から噴出する、酒造用水として良質な水を使用するが、ここ龍神酒造は、自分の敷地にある“龍神の井戸”(写真9)から噴出する、尾瀬の湯どけ水が滞積した大変美味な水を使用する。
要するに、いい水が噴出するから、いい酒を造ることが出来るのである。
酒を造る工程は総て手造り。(写真2,3,4,6)
最近流行の機械で精米したり、洗ったりすると米が割れて美味しい酒が出来ないそうである。
現在何代目であるかを聞きそびれたが、大変ご親切な現社長さんが、30分以上にも渡ってお酒の話をご丁寧に説明をして下さった。(写真7の奥に、ちょこんと座っていらっしゃる方が社長さん。)
社長さんのご説明の前に、勿論酒造りの工場を見せて頂いたが、先ずは帽子を被り、白衣を着て、貸して頂いた長靴を丁寧に薬で洗浄して、手も勿論殺菌・消毒してからでないと、工場には入れて貰えない。(写真5。布袋さんのようである。)
写真を撮ってはいけない部屋も幾つかあった。
見るもの総てが驚きであったが、“酒が匂う。”という名前を持っている塾長は、この見学を勿論大変楽しんだ。
社長さんのお話の後、待ってました!の試飲が行われたが、先ずは“尾瀬の雪どけ”の冷やおろし。(写真7の左側)
“浦霞の冷やおろし”を今でも、ボトル・キープしている“司さん”で飲んでいるが、趣が全く違う。 フルーティーな白ワインのようである。
そして、次が“龍神”。(写真7の真ん中)これは確か“山田錦”を使わない酒で、キリッとしていた。
そして、じゃじゃーん!
写真7の一番右に控えしは、91年度の日本酒業界の品評会で三冠王を取った、“尾瀬の雪どけ”の古酒(今年は2007年だから、16年物。)である。
さあ、お値段は幾らでしょう?
Vintage.の若い五大シャトーの2倍以上しますよ!
この古酒は、龍神酒造さんの冷たい酒蔵で寝かされており、よく目にする黄色がかった、“いかにも古酒!”というような下品な色をしていない。
ほんのりオレンジ色をしており、口に入れると、芳醇な香りが口一杯広がる。
まあ、今まで決して飲んだことの無い味と香りである。
参った!
この古酒、東京の某有名ホテルの和食屋に数本置いてあるそうだが、まあ飲むのはお止めなさい。
勿論、滅茶苦茶美味しいが、目の玉が飛び出るほどの料金をお支払いになることになりますぞ!
この龍神酒造さん、日本酒の他に、何と“オゼノユキドケ”という地ビールと、“城下町のナポレオン”と言うおどけた名前の吟醸麦焼酎を造っている。
理由は、“酒造りは一年中行うものではありません。昔は、優秀な杜氏でも酒造りの時だけ来て助けてくれ、農繁期は地元に帰って農作を行う人たちが殆どでした。今は、優秀な杜氏を常に確保しておくために、日本酒造り以外のことも始めたんですよ。そうすると、日本酒を造らない時でも、杜氏がここで働く機会が有りますからね。”と社長さんが説明してくれた。
優しい会社ですね。
一番目の写真が、龍神酒造さんのお店であるが、ここから好きな酒を買って地方にも送れる。
塾長も、ついついここで買い過ぎてしまった。
インターネットでも買えるそうですから、どうぞ。
http://www.ryujin.jp/
味は、塾長が保証致します。
あ、今このサイトを見ていたら、“尾瀬の雪どけ・柚子れもん酒”というのがあるが、これが美味いんだ!
館林から東京に帰る特急電車の中で、沢山頂きました。

為替の話は難しいが、酒と車の話はスイスイと行って、これ簡単!

また怒られるかなあ?


     金・土・日曜日と遊び呆けて、大慌ての塾長。

p.s
今日の月曜日は忙しいぞ!
1) BSニッテレに出演。
2) 外為さんのマーケット・ビューを自宅で録画。
3) “週刊・独り言”の完成。
4) 東京に出掛けて、レポート書き2本。
5) 外為さんの“酒匂隆雄の為替談義”の録画。
6) お客さんとの会談。
7) ロンドンからの客人と、Afternoon Tea.をしながら、相場の話をちょいとする。Afternoon Wine.の方がいいなあ。
8) テレビ東京のスタッフと、火曜日の“Morning Satellite.”の打ち合わせ。
9) やっと、楽しいWine & Food.
翌日早いので、(Morning Satellite.は午前5時45分から6時40分まで放映される。)無茶は出来ない。
ウチのヤツは、“朝早いのだから、月曜日の夜、ホテルに泊まったら?”と言うが、少々早起きしても(3時半に起きなくてはならない!)、寝るにはやはり自分の枕が一番いいですよね。

現在、日曜日の午後6時。
この“独り言”の草稿を書いていると、酒が来た!
写真11の一番左が噂の16年物の古酒。
左から2番目がたった(?)5年物の古酒。
この2本は、5大シャトーのフツー(?)の赤ワインを引っ張り出して、ホンチャン・セラーに隠した。
次の6本が例のスッキリ“龍神”。
次の2本が“尾瀬の雪どけ・柚子れもん酒”。
最後が、“辛口・尾瀬の雪どけ・備前雄町”とやら。

フーム。
先日頼んだ2ケースの“ボジョレー・ヌーボー”もそろそろ来るし、気張って肝臓を鍛えなくてはならないな!

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2007年10月22日 (月)

裁判。

先週の、“週刊・独り言”で、380RSをぶつけられ、そのぶつけたヤツの理不尽さに腹を立てた経緯をご紹介したら、反響が大きかった。
本当は被害者であるにも拘わらず、まるで加害者扱いをされて、払わなくてもいいものまで払わされた、というご意見もあった。
これは、いかん。
自分が起こした裁判の例をご紹介して、“絶対に泣き寝入りをしてはいけない!”ということを強く申し上げたい。
但し、その前提として、ブログでも言ったように、
-自分は無過失か、あるいは過失があったとしても軽微である確証がある。
-裁判を行う時間的な余裕と、ある程度の経費を払う覚悟(弁護士を雇わなければならない。)を持っている。
 (実は、これがネックで一般の人は中々裁判を起こせない。これが、悪党どもの思う壺。個人的に弁護士を雇うのは大変なので、保険を契約する際に、イザと言う時にその保険会社が弁護士に成り代わって対処してくれるのかをチェックしておくことは大事です。)
-一旦自分の主張を表明したら、絶対にそれを変えない強い意志を持ち続ける。
などが必要である。

下の例は何れももう20年近く前の話で、幸いにも最近は理不尽な目には会っていない。

事例1。
土曜日の朝、友人と御殿場近くのゴルフ場でプレーするために、東名高速に乗ろうと国道
16号線を走っていた。その頃は、バイパスが無く、16号線は滅茶苦茶混んでいた。
のろのろ走っていたり、停まったりしていたら、突然ワンボックス・カーに追突された。
相当な衝撃があり、右側後部ドアは開かないほどに車のボディーが歪んだ。
30歳前後の若者が飛んできて、謝罪した。
警察が来て現場検証をし、“救急車を呼ぶから、病院に行きなさい。”と勧められ
た。実はその時は体のどこも痛くも痒くもなかったので、“いえ、皆大丈夫です。”と言う
と、“これだけの衝撃があるので、間違いなく後から痛みが来る。絶対に病院に行きなさい。”と強く言われた。(本当にそうだった。午後から、首と腰がズンズン痛くなり、なんとこの後遺症は2年間も続いた。皆さん、事故直後は痛くなくても、絶対に病院に行かなくてはいけません。)
現場検証をしている間に、加害者に、“この車は相当ダメージを受けていると思うので、修理を終えてもこの車には乗りたくない。新しい車に買い換えるので、修理後の査定価格と新車価格の全額とは言わないが、半額を支払うか?要するに、新車に買い換えて、君が半分、そして俺が半分持つ。”と言ったら、この若者、“本当に申し訳ありませんでした。半額、私が持ちますので是非そのようにして下さい。”と神妙に言う。
妙なもので、現場検証を終えると、“加害者に対して情状を酌量しますか?”と警察が聞く。“はい、素直に謝ったし、その後の弁償に関しても誠意を示しているので、そうして下さい。”と言って検証は終わり、車はレッカー車で運ばれて、我々は病院で診察を受けた。
病院では、“取り敢えず全治2週間と致しますが、恐らくもっと長引くと思います。ご自宅に近い病院で、ちゃんと治療を受けて下さい。”と言われた。
数日後、その若者に電話をして、“合意したとおりに事を運んでいる。差額が160万円くらいになりそうなので、君は80万円支払えば宜しい。”と言ったら、“実は、お支払い出来ません。壊した車は完璧に修理してお返ししますが、私の家内が勤めている弁護士事務所の先生が、払う必要は無い、とおっしゃっているので、お支払い致しません。”
“だって、君は払うと合意したではないですか。あの約束はどうした。”
“あれはあくまでも、口約束ですから。”

プッツン!

“分かった。では、約束を反故にするんだな?
車は自分で直して、損害賠償請求をすると、その弁護士先生に言っとけ!“

先ず、警察に行って、事故当日情状酌量に合意した調書を書き直して貰った。
“一方的な加害者にも拘らず、全く反省をしておらず、厳罰に処して頂きたい。”
これで、あの若者の免許停止期間が数ヶ月延びた筈である。
そして、数週間後に損害賠償請求(物的な車の修理と慰謝料)を行った。
相手は、本当に“被告として”裁判所からの呼び出しを受けて、びっくり仰天したらしい。
あの、“口約束”も、裁判では証拠として採用されるのである。これは覚えておいて下さい。
結局、先方が裁判所の和解勧告に従って、80万円を相当越える金額を支払うことを承知した。 天誅!

事例2。 上の事故の数年後。
自宅から、その頃塾長のオフィスが在った有楽町に向かうため、横羽線の左側・走行車線を走っていた。前を大きな20トン・トラックが追い越し車線を制限速度以下で走っている。
仕方ないので、そのまま走行車線で追い抜こうとした途端、ドカーンと丁度塾長の右側ドアの後ろにぶつかって来た。ガラスが割れ、血だらけになりながら、必死に車をコントロールしようとしたが、右から斜めに押された状態のまま時速80キロくらいで走っているので、塾長の車が右へ、右へと行こうとする。ステアリングを目一杯左に切ったまま、数十メートル引き摺られて停止した。
引き摺られている間、“あ、これは死ぬな。”と思った。
咄嗟に、“この右にあるトラックに轢かれたら痛いだろうな?”、ということと、“あ、もし死んだら、お昼のランチの約束のキャンセルはどうしよう?”とだけ、考えていた。
時間的にはほんの数秒であろうか?
怖かった。
横向きのまま停止したら、そのトラックの運転手や周りの車の運転手が数十人駆けつけて、“大丈夫ですか?怪我していますよ、救急車を呼びましょうか?”と言ってくれた。
ガラスの怪我で血は出ていたが、ほんのかすり傷。
精神的なショックの方が大きかった。
来た救急車は返して、現場検証が始まった。
高速警察隊は、“大事にならなくて良かった。”と感心していた。
ぶつけた若い運転手は、トラックを所有する会社の御曹司で、大変礼儀正しい男だった。
“全く、貴方の車が見えませんでした。そもそも大型トラックが追い越し車線を長く走るのが違反で、総て私の責任です。お怪我が大したことがなくて、安心しました。”と殊勝である。
塾長は車にうるさいので、これくらいの事故に会った車は、幾ら完璧に修理しても真っ直ぐ走らないことを知っている。
微妙に車のシャシー(ボディー)が歪むのである。
そうすると、車は真っ直ぐ走らない。
(余談であるが、塾長の380RSの溶接ポイントが普通のフェアレディーZの何割増かで行われ、左右のボディーをバーで固定するストラット・タワー・バーなる物を装着するのは、ボディーの剛性を強めて歪みを少なくして、高速での走行を安定させるためである。)
“ああ、死ぬかと思った。でも、無事で良かった。ところで、この車はまだ購入して1年も経っていないが、これにはもう乗りたくない。
実は数年前にも同じことをしたのだが、この車を修理した後の査定額と、新車価格の差額の半分を持って貰いたい。要するに、新車に買い換える差額の半分を負担してくれ、そして残りを私が負担します。”と提案した。
“全く問題ありません。そのように指示を致します。”

今度は、先方の保険会社から電話があった。
“加害者が、新車購入するための差額の半分を払うと言ったそうですが、我々は納得出来ません。約束は兎も角、動いている車同士がぶつかったんだから、そちらにも過失がある筈です。車を修理するのに必要な額の応分は勿論負担しますが、全額或いは新車を購入するための差額はお支払い出来ません。”
“いいかよく聞け。加害者のトラックは、俺が追い抜きをしている真っ最中に、前のドアの後部付近に突然ぶつかってきたんだぞ! 俺はどうやって避けるんだよ? 
もしも、視界があるところにぶつかってきたんなら避けようがあるが、目の後ろだぜ、ぶつかって来たのは。 あんただったら、避けられるのか?”
“さあ、それはよく分かりませんが、我々は今までの判例に基づいて意見を言っているまでですから。”
“判例? 見えないところにぶつけられても、当方に過失があるという判例があるのか?
よし、やってみよう。
取り敢えず、車を修理に出し、同じ車を代車で借り、総ての額の損害賠償請求をする。
やると言って、やらない。
払うと言って、払わない。
弱い者いじめばっかりして、強い者には媚びる。
あんた達を絶対に、許さない。
裁判所で会おうぜ。”

約一ヶ月後に、車の修理費用、そして代車費用で数百万円、それに慰謝料の請求を行った。
約束を反故にした慰謝料なんて、微々たる物。
巨額な物は、“恐怖の慰謝料”。
我々の主張は、“数秒とはいえ、20トン車に引き摺られていた間の恐怖は耐え難いもの。
原告(塾長のことです。)は、本当に死を覚悟した。(これ、本当です。)
幸いにも、結果として怪我も大したことはなく、原告は善意で行動していたにも拘わらず、被告に裏切られた。
それ相応の償いをして然るべきだ。“というものであった。
行きましたよ、東京地方裁判所に原告として証言するために。
いくらこちらが絶対に正しいと信じていても、やはり裁判所で証言するのに不安はありますよ。
向こうも、相当優秀な弁護士を雇っていたから、誘導質問のようなことをしてくる。
すかさずこちらの弁護士が、“異議あり。原告は答える必要はありません!”と叫ぶ。

結局、この時も裁判所が和解を勧告してきた。
“恐怖の慰謝料の判例が無い。”が、明らかに原告の主張は正当である。
そして、勿論満額ではないが、最初に合意した条件で応じれば済んだであろう負担の5倍近くの損害賠償請求に被告側が応じた。

上の二つのケース共に、自分で弁護士費用を支払った記憶が無い。
恐らく、2件とも和解条件にこちらの弁護士費用の負担の合意があったのではないかと思う。

事例3。
実は、こちらの事故の方がもっと大変で、またまた死に損なった。
東名高速で追い越し車線を走行中に、走行車線で走っていた車が、左後部のドアにぶつかってきた。
実は、御殿場のインターチェンジの合流地点の左側からサイド・カーが来ていることは、数百メートル手前から承知していた。
そして、このサイド・カーを避けるために、この車が突然車線変更した。
ぶつけられた反動で塾長の車は中央分離帯にぶつかり、またその反動でぶつかってきた車に今度は塾長がぶつけた。
この頃はしょっちゅうサーキットに行っていて、一番自分のドライビング・テクニックに自信があった頃である。

F.R.=(前にエンジンがあり、後輪駆動。一般の車に多い。取り回しが楽。トヨタ・クラウン、ニッサン・フェアレディZ。)
F.F.=(前にエンジンがあり、前輪駆動。最近の車に多い。前から引っ張るのだから、普通の走行中は一番効率がいいが、下り坂のブレーキには注意。ニッサン・ブルーバード、トヨタ・カローラ。)
M.R.=(車の真ん中にエンジンが有り(ミッド・シップ)、後輪駆動。一番重いエンジンが車の真ん中にある、スポーツカー向けの究極の車。限界は高いが、一旦スピンすると、独楽のように回る。素人には難しい。ホンダNSX。フェラーリ。)
R.R.=(後ろにエンジンがあり、後輪駆動。後ろから押して走るので、甚だ難しい。昔は、雨の日に乗ると直ぐにスピンした。ポルシェ。)
これらの特性により、車の運転の仕方は違う。
この事故の時に乗っていたのは、ウチのヤツのF.F.の車。
これは、アクセルを踏んで、ステアリングを切った方向に車は進む。

中央分離帯にぶつかった瞬間、ブレーキを踏まないでアクセルを踏んだ。
そして、ステアリングで真っ直ぐ立て直そうともがいた。
あの時ブレーキを踏んでいたら、今頃この世には居ない。
如何に4輪ディスクと言えども、あの時ブレーキを踏んだら、左の車輪はアスファルト、右の車輪は砂で、間違いなく左側に大スピン!
一巻の終わりだったと思う。
左後輪はバースト、車の両側はぼこぼこ。
今度もガラスが割れて、またもや顔と腕が血だらけ。 でもかすり傷。
調べに当たった高速警察隊の警官が、“よく無事でしたね。ブレーキを踏まなかったんですか?”と聞いた。
A級ライセンスを持っていてサーキットでしょっちゅう練習をしていると言ったら、“我々も同じような訓練を受けますが、やはり咄嗟にブレーキを踏んじゃうんですよね。”と言っていた。
でも皆さんにはお勧めしない。 やはり、取り敢えず、思い切りブレーキを踏みなさい。

ぶつけた相手は中年の人の良さそうなおじさんで、事故に驚いて立っているのもままならない様子であった。
塾長は人格者(?)なので、今回も“生きていて良かった。”と思い、なるべく穏便に済ませてやろうと思った。
何故だか、車(新しい車に買い換える、云々)に関しての話はしなかった。(ウチのヤツの車だったからかなあ?)
警察にも、“物損扱いで、人身事故扱いにしないで下さい。”と頼んだ。
警察はその方が取調べが簡単なので、即座にOK。

また同じことが起きた。
先方の保険会社の人間が塾長のオフィスに訪ねて来て、“動いている車同士がぶつかった場合、ぶつけられても無過失と言うことは有り得ない。貴方の保険会社にも連絡して下さい。
そしてお互いに協議して、過失の割合を決めます。“

前回の事故と同じ。
“どうやって、左後部にぶつけられるのを避けるのだ?お前は出来るのか?お前に出来るんだったら、俺の過失を認めよう。じゃあ、一丁あんた、自分でやってみるか?
修理も何も結構。自分で直し、後日損害賠償請求する。”と言ったら、首を傾げながら帰って行った。
翌日静岡県警まで出向き、人身事故として再度の実地検分をお願いした。前回の事故の時と同じように、これであのおじさんの免許停止期間が延びた筈である。
異変に気付いた保険会社から電話があった。
“言っただろう。そっちにその気が無いというか、一方的にこちらの過失を主張して、ぐだぐだ言っている。自分で直して、後は裁判で俺の主張が正しいかどうかを裁判官に判断してもらうのが一番だろう。 動いている車同士がぶつかった云々なんて、関係無いよ。本当に俺に過失があったかどうかが問題なんだよ。”と言ったら、弁護士の名前を聞いてきた。
別に隠す必要は無いので教えてやったら、直ぐに“裁判を取り下げて下さい。ご指示の通りに致します。”と平謝り。
この弁護士先生、テレビにもよく出る車関係と離婚訴訟の辣腕弁護士で、この業界では名が知れているらしい。
名前を聞いただけで、“負ける!”と思ったらしい。

こちらも、
-今までの経験則だけで、過失を押し付けようとした。
-まさか、裁判などを起こさないだろうと個人の力の無さに付け込もうとした。
-実際に裁判を起こすと、今回は豹変して平身低頭で“勘弁してくれ。”と泣きを入れた。
というようなことは、絶対に許さない。
“俺は、とことん最後まで戦う積りだった。”、と言ったら、“よく分かりました。”と平身低頭。
結局裁判にしなかったので、彼らがどういう経済的な保障をしたかは忘れた。

繰り返しになるが、
-絶対に理不尽なことに同意しない。
-個人の力は限られているが、恐れずに警察でも、自分の保険会社でも、そして可能なら優秀な弁護士と相談する。

我々は法律は知らないから、
-知らないことを悩んでも無駄。
-真実を話して、専門家に任せる。

以前にも“犬事件”としてブログでご披露したが、
前のマンションに住んでいた時に、“ペットは飼ってはいけないことになっている。犬を処分するか、マンションから出て行って欲しい。”と冷たく言われたことがあった。
あの頃(約10年前)は、ペット飼育可の賃貸マンションは殆ど無く、しかも同じような広さの物件は皆無であった。
ウチのヤツが憔悴しきって、“やっぱり、ここを出て行くしか仕方無いんでしょうね。でも、何処に住んだらいいんでしょう?”とため息をついている頃、たまたま例の優秀な弁護士と酒を飲む機会があり、この話をした。
その弁護士は、“酒匂さん、犬を処分することも、マンションから出て行く必要もありません。飼っている犬が公序良俗に反する行為、例えば夜鳴きをする、他人に吠えたり噛み付く、あるいはエレベーターなどの共有部分でおしっこをする、などをしなければ平気です。
何なら、不動産会社に電話をしてあげましょうか?”と平然と言う。
“えーえ、本当かいな。いや、俺が自分で嫌味を言いたいから、俺に任せて。”と言って、その優秀なる弁護士に極上のワインを奢ってやった。
翌日、犬を処分するか出て行けと冷たく言い放った不動産会社の担当者に、こちらも冷たく言い放ってやった。
“このまま、犬を飼い続けながら住み続けます。貧乏になって、家賃の支払いが滞るようになったら、こちらから出て行きます。”
それから、全く何の連絡も無かった。

わう、もう7ページにもなってしまった。

最後にもう一度、
-悪は必ず滅びる。
-善は必ず報われる。

              長文を書いて、少し疲れた塾長。(2時間掛かった。)

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2007年10月15日 (月)

寂しい塾長。

余り愉快な話ではないので、内緒にしておこうと思ったが、最近“独り言”のネタに困っており、やはりお話しすることにしよう。

先週の“独り言”で、下衆な言葉を使ってご批判を受け、自分でもそう思ったので、今週はなるべく穏やかな言葉を使うことにしよう。(本当は凄く腹が立っているので、またしても下衆な言葉を使いたいが、止めておこう。)

380RSをぶつけられた。
大したことはないので、かすられた、という方が正しいかも知れない。

先週、お手伝いをしている銀行との定例の会議を終えその後、10月15日から始まる、“外為マーケット・ビュー”の打ち合わせをするために、汐留にある外為どっとコムさんのオフィスを訪ねようとした。
第一京浜で新橋駅を越えて左折し、外為さんのオフィスに行くためにさらに右折しようとして、一時停止で右の方向指示器を出して待っていたら、前でやはり一時停止していた、大きなヴァンが突然バックをしてきた。
クラクションを鳴らしたが間に合わない、“ザ・ザーッ。”=(ドカーンではない。)と音がして、左の前部に突っ込んできた。
“あーあ、やられちゃったよ!”と咄嗟に思った。
男が車から飛び出してきて、“済みませーん、気が付きませんでした。”と最初は低姿勢だった。
ところが、この男、後で態度が変わる。
直ぐに110番した。
ハザードを点けて、パトカーが来るのを待っている間に、この男、自分の車や380RSの写真を何枚か撮り、車の停止位置にテープを貼っている。
“こいつ、何をやっているのかな?”と思ったが、放っておいた。
そして、この男色々な所に電話をしている。
パトカーが来て、事情聴取が始まったが、まあ状況を見れば一目瞭然。
塾長は必要なことだけ言って、後は黙っていた。
まあ何とはなしにこの男の事情聴取を聞いていたら、嘘を付いている。
“左のコイン・パーキングに駐車しようと思って、ハザードを付けてバックしたらぶつかった。後ろは確認したが、車がいることに気が付かなかった。”
嘘付け、お前。 ハザードを付けていなかったではないか!
まあ、そんなことはどうでもいい。
この男、何を血迷ったか、塾長に、“ハザードを付けてバックしだした時に気が付かなかったのですか?”と、さも塾長にも非があるようなことを言い出した。
そして、“今ウチの保険会社と弁護士と話をしている。貴方も保険会社に連絡して下さい。”

プッツン!!

“あんた、何言ってんだよ。ハザードはパトカーが来るちょっと前に付けたじゃあないかよ。嘘を付くな。”
“いや、ハザードを付けてバックした。”
“人が大人しくしていりゃあ、いい気になりやがって!
怪我もしなかったし、車の損傷も大したことないから穏便に済ませてやろうと思ったら、付け上がりやがって。 よし、じゃあ徹底的にやってやろう。
今直ぐに、その保険会社と弁護士を連れて来い。
見れば分かるように、この車は購入してまだ一ヶ月も経っていない新車だ。
あんたの負担で総てを交換して、あんたがぶつける前の完璧な状態に戻すんだったら勘弁してやる。
そうでなければ、
-あんたは何もしなくて宜しい。俺が自分で完璧に修理して、損害賠償請求をする。
-明日、ニッサンの工場に修理に出すから、380RSとまでは言わないが、フェアレディーZの代車を明日の夜までに自宅に届けろ。
-何だか、写真を撮ったり、テープを貼ったり、訳の分からないことをやっているが、俺にとっては全く無駄なこと。それは警察の仕事であって、あんたのではない。
-俺は警察の事故証明書は要らない。自分の保険会社に連絡はしない。
 理由は簡単。俺には全く過失が無いからだ。
-だから早くその保険会社と弁護士に俺の言っていることを伝えろ。”

状況は一目瞭然なので、警察の調べは直ぐに終わり、彼らは引き上げた。
この男、またぞろ電話でぐだぐだ話していて、電話に代わって出てくれと言う。
出ると、相手の保険会社の担当者が、“状況が変わったらしいですね。”と言う。
“何も変わっていないよ、何の話をしているんだよ?”
“ウチのお客さんがバックしだした時に、お宅様の車は完璧に停止していたんですか?”
と言う。
“それじゃあ何か? 俺にも過失があるとでも思ってんのか?”
“いや、それは分かりません。 だから、お尋ねしているのです。”と極めて丁重に、真っ当なことを言う。
悪いのは、あの男だ。
そこでこちらも丁重に、さっきあの男に言ったことを話し、“俺はこういった理不尽な男が大嫌いで、こういった理不尽な仕打ちにも我慢が出来ない。今まで似たような件で、三度裁判を起こしたことがある。今回も同じことをするのに吝かではない。俺は本気だよ。”と言った。
“今晩は酒を飲む機会があるので、車は運転出来ない。明日一番で車をニッサンの工場に届ける。総取替えをさせるから、相当金が掛かるかも知れないが、俺は知らない。
見積もり金額を聞いてから、どうするかを決めなさい。=(塾長が言うように、総取替えに合意するか、或いは損害賠償請求を受けるか?)

そして、翌日保険会社から電話があり、“総て、ご指摘の通りに致します。”と言う。
当たり前だって言うの!
“実は車はもう一台あるので、代車は要らない。”と言ってやった。

それにしてもあの男、何を考えていたのだろう?
-偉そうにすれば塾長がびびると思ったか?=馬鹿め。逆効果だよ。
-塾長にも過失があるように主張したかったか?=停まっている車にぶつかって来るんだから、無過失に決まってるだろ。嘘を付いてハザードうんぬんと言ったって、全く関係無し。

皆さん、自分に過失が無いと思ったら、とことんそれを主張すること。
逆に自分に少しでも過失があったら、素直にそれを認めること。

悪は、必ず滅びます。
善は、必ず報われます。

             380RSが手元に無くて、少し寂しい塾長。

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2007年10月 8日 (月)

どっちが大事か?

先週の“週刊・独り言”のコメントへのお書き込みに、恐らく元同僚であったのではなかろうかと推察する方からのものがあった。
どうしてその方が元同僚かと思うかと言うと、この出来事を知っている人はごく少人数であった筈であるからである。
そのお書き込みの一部をご紹介すると、
* しかし 一つだけいまだに理解できないのは***銀行シンガポール為替Headとその「情報管理」に関し大喧嘩になり、結局、先方が辞めていったと回顧していますが、その介入はアナウンス効果も考えたパブリック介入ですよね?なぜ、同組織の同胞にいち早く教えてあげなかったのでしょうかね?*
というもので、ご質問の要点は、“あの時中央銀行である日本銀行が、おおっぴらに介入している時に、どうして自分の銀行の支店にその介入の事実を伝えなかったのか?”というものである。

顛末。
1995年に、ドル・円相場は大暴落し、瞬間ではあるが、80円を切った。
当時の大蔵省・国際金融局長であった、Mr.Yenこと榊原英資氏は、それまでとは違った手法で介入を指揮し、この難関を乗り越えた。
榊原氏は直接市場の為替ディーラーと話をすることを好み、我々は月に一度局長室に招かれて、結構美味しい幕の内弁当を頂きながら、市場のセンチメント、需給などを話して、相場がどう動くかを議論した。
議論は無礼講で、言いたい放題であった。
この昼食会以外にも、“私の部屋のドアは何時でも空いていますし、皆さんからの電話も最優先で取ります。どうぞ、忌憚の無いご意見を下さい。”と言われた。
その頃の大蔵省の局長といえば、民間銀行の頭取・副頭取クラスしか会うことが出来ず、我々フツーのディーラーは耳を疑った。
でも、凄く嬉しかった。
そりゃあ、何でもお教えいたしますわなあ、ああまで言われりゃあ。
“ここは、一気にドルを買いましょう。
 ここは、様子を見ましょう。
 今、昼休みでディーラーが油断していますから、一発ドルを買ってみましょう。=(後日、これが大問題となり東京外国為替市場委員会での議論に発展した。実は、それまでは昼休み(正午から13時半まで)は、介入はしない、大口の取引はしない、という暗黙の了解があり、それで塾長は毎日八丁堀の“司”さんに11時半から13時半まで通っていたのだ。結局、市場委員会でも“東京市場の昼休みは、極めてローカルな慣習である。同時に、オセアニア、香港、シンガポール市場は開いているではないか。海外のディーラー達は、昼飯といえばデスクで大急ぎで食べているぞ!”と押し切ったが、お陰で塾長の2時間ランチはそれ以降、パーになった。)”
そして、その後の相場展開はご承知の通り。
何と、1998年には147円までドル高・円安が進んだ。

前置きが長くなったが、そういう訳で1995年にあの手、この手でドル安・円高是正を目指してドル買い介入をお手伝いしている時に、この事件が起きた。
同じ銀行のシンガポールの為替のヘッドが偉い剣幕で電話を寄こし、
“お前が大量にドル買い介入をしていることを市場から聞いた。何故、俺にその事を教えないんだ!”
“へーえ、そうか。何で、俺がお前に介入していることをご注進しなくっちゃあいけないんだよ。そもそも、介入の有無だって我々は外部には話してはならない掟だし、それは銀行の本支店間だって一緒なんだよ。だから、我々は大蔵省や日本銀行から守秘義務の徹底さを信頼されて介入のお手伝いをやらせて貰ってんだよ。わーわー、騒ぐんじゃあねーよ!”
そうしたら、この馬鹿、何を血迷ったか、“お前は守秘義務を守って日本銀行のご機嫌を取るのと、我々自分たちの銀行の利益チャンスを増やすのと、どっちが大事だと思ってんだ。この件を、グローバル・ヘッド(本店にいる、一番偉いヘッド)に報告するからな!”と、この塾長様を脅しやがった。
プッツン!と音がして、塾長は切れた。
相当、汚い英語で罵った記憶がある。 ここには書けません。
まあ、穏当に表現すると、
“ああ、報告でもなんでもしやがれ、この阿呆んだら!
テメー、二度と俺に電話なんか寄こすんじゃあねーぞ!”と叫んで、電話の受話器を1メートルくらい放り投げた。
ディーリング・ルームがシーンとなって、暫く何の音もしなかった。

さてと、
-*その介入はアナウンス効果も考えたパブリック介入ですよね?*とのご指摘ですが、そうではありません。
介入には、基本的には公にしない覆面介入(今でこそ、毎月財務省が介入実績なるものを公表しますが、その頃は全く秘密で、毎月末の外貨準備の増減で介入の有無、そして介入額を推定するしかなかった。)、そしてわざとおおっぴらに介入の事実を告げるパブリック介入(と言っていいのか知りませんが)があり、プラザの時や、先週ご披露した1990年の1月3日の介入はこれに当たる。
ただ基本的には、“介入をやっていることを公表していい。”と言われなければ、覆面介入と理解して介入のお手伝いをし、ディーリイング・ルームの外には一切口外してはならない掟がある。
口外したら、即首! さようなら!
塾長は、ディーリング・ボードに張り付いての売ったり、買ったりは1980年代の中頃で止めていたが、介入だけは自分でやった。
ディーラー連中も、むしろそれを喜んだ。 
介入というのは金額も大きいし、結構煩雑で、塾長のようなベテランで暇人がやるのが一番いいのである。

あの時も、介入が行われていることはミエミエであったが、口外するわけにはいかない。
そして、あのシンガポールの馬鹿が怒鳴り込んできたわけである。

-日本銀行との掟を守ることが大事か、それとも我々自分たちの銀行の利益チャンスを増やすことのほうが大事か?
我々の業界での掟破りは、即、死を意味する。
必ず、業界から追放の憂き目を見る。
ちょっとしたミスに付け込んだ、人を陥れるギャング・ディール。
明らかに間違ったレート(不注意で1円間違ってレートを提示することは有り得る。)であることを知りながら、それを撃ってたかが数百万円のうす汚い利益を上げて喜ぶ輩達。
ばれなきゃあいいや、と思って掟を反古にする連中。
まあ、長生きしないですな、こういう連中は!
例外なく、何時の間にか市場から消え去った。

他人がやっている介入なんか当てにせず、自分の才覚で利益を上げたらどうなんだよ!

で、結論からいうと、お書き込みどおりこの馬鹿は首!
塾長にはお咎め無し。

あの時、間違いなく、この馬鹿は我らのグローバル・ヘッドにこの件を垂れ込んだに相違無いが、まあやはり塾長の所属していた銀行は、Professional.=(プロ)ですなあ。
馬鹿を首にして、正義(?)を守ってくれた。

これは、塾長の個人的な意見であるが、どうも多くの人が、“誰が売って、誰が買っている。”というのを知りたがる。
そんなもの、どうでもいいではないですかねえ。
ある相場で売買が成立するということは、同じ相場を見て、“あ、ここは売りだ。”と思う人と、“あ、ここは買いだ。”と思う人がいることを意味する。
そして、その売買の判断をするに当たって、自分の考え、情報、チャートなどを参考にする。
“誰が売って、誰が買っている。”なんて、情報でも何でもありませんからね。
ただのお喋り。 そう言えばお喋りの好きなやつがいますよね。

ポジションを取って、あれ、俺のやったことは間違っているのかなと思えばスパッと切ればいいし、おっ、正しいぞと思えばほくそえんで静かにしていれば宜しい。
他人のやっていることなど、お節介をやく必要無し!


                   益々寒くなり、憂鬱な塾長。

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2007年10月 1日 (月)

幾つかのエピソード。

先日、ブログの読者のお一人である“牛飼い”さんから、
* 今週はUSD、CADのパリティやEUR/USDの新高値など歴史的瞬間がありましたが、その場に立ち会えるのがFXの醍醐味ですね。*
というお書き込みがあり、
“そうか、確かにユーロが対ドルで毎日のように高値を更新し、カナダ・ドルが米・ドルとのParity.=(等価)を超えた、などは確かに歴史的なことだと言えるな。”と思い、今まで自分が35年以上も為替をやってきて、どんなことがあったのかなあと思い出してみることにした。

先ず、やはり長いディーラー人生の中で最大のエポックの一つは、1985年のプラザ合意であろうか。
あれは今思い出しても鳥肌が立つくらい、ディーラーとしての勘が冴えた事件であった。
塾長が書いた本をお読みになった方は、“あ、その話、知っているよ。”とお思いだろうが、ご容赦。
やはり、いつ思い出してもエキサイトするのである。

時は1985年9月22日の日曜日。
日経新聞の5面かそこら辺に、小さな記事が載っていた。
“今週末、ニューヨークのプラザ・ホテルに先進五カ国(日・米・独・仏・英)の蔵相・中央銀行総裁が集まって、秘密の会議を持った模様。”
たった、それだけ。
その頃は、協調介入とかG5とかの概念も無く、“何だろうなあ?”と思ったが、“何か変だなあ?”としか感じなかった。
実はその前の週からドルがジワジワ下がっており、東京市場ではBuy on dips.=(ドルが下がったところを買う。)のスタンスを取るプレーヤーが多かった。
そのプレーヤーの一人に、ある大手商社のK課長がいた。その前の週に、二人で結構ドルを買っていた。
この課長とは、普段、夜でも週末でも時々情報交換をしていたので、早速電話をした。
“この日経の5面の記事、どう思います?”
“え、そんな記事無いですよ。”
“ほら、これこれの記事の隣ですよ。”
“ええ、そのこれこれの記事は有りますが、その秘密会議の記事が有りません。”
K課長は千葉にお住まいで、塾長の横浜版と内容が違っていた。(千葉の方々、ご免なさい。別に千葉が田舎だと言っているわけではありませんからね。)
それほど、このニュースは遅く入って来て、家に配達される千葉版には載っていなかったのである。
K課長は早速JRの売店に(その頃はキヨスクとは呼ばなかった。)最新版の日経を買いに行き、記事を読まれた後電話を頂いた。
“酒匂さん、どう思います?”
“うーん、よく分からないのですが、何だか変な気がします。明日、秋分の日で休日ですが、銀行に出社してドルを売りたいと思います。”
翌日の9月23日は月曜日で休日であったが、8時に出社した。
そして、K課長と共にシドニー市場めがけて、ドル売りを始めた。
確か、240円より少し上だったと思う。
ある程度売った9時頃、何と中央銀行である日本銀行から電話が掛かってきた。
“酒匂さん、今日は休日にも拘らずご出社ですか?どうしてですか?”
“どうしてって、貴方もどうして休日出勤しているんですか?
私は、昨日の日経新聞の記事が気になって、ドルを売りに出てきたんです。”
“そうですか。それは丁度良かった。ドル売り介入のお手伝いをお願いします。
実は、先進五カ国で、ドルを下げる合意に達したのです。詳細は、後程。”
これが、あのプラザ合意の後の、恐らく世界最初の強調介入の始まり!
売った、売った!  滅茶苦茶、ドルを売った。
勿論、自分でも介入額よりも随分沢山売った。
で、何が起きたと思います?
シドニー、香港、シンガポールの友人達から、“お前、日本は休日なのに何やってんだ?”と電話が一杯来た。
“介入していると言ってもいい。”と言われていたので、“介入だよ、介入! 凄いよ。何がなんでも、ドルをぶち下げると先進五カ国が合意したらしいよ。”
ところが先程言ったように、その頃はG5とか協調介入とか誰も知らないから、全く馬鹿にされた。
ドルが下がらない! 当日は、大分やられた。 目一杯のドルのショート・ポジションにしていたが、2円くらいドルが上がって東京が終わった。

そして、その後24時間内に約20円くらいドルが下げた。
その後1年で、ドル・円は120円まで落ちた。
感無量。

次のエポックも、やはり介入。
我々は介入のことは明かさないのが原則であるが、プラザ合意は22年前、これは17年前のことなので、もう時効であろう。
時は、1990年1月2日の午後9時頃。
テレビのニュースを見ていたら、“欧州市場で、ドルが全面高!”と言っている。
具体的な相場レベルは覚えていないが、ドル・円が145円くらいだったと思う。
欧米市場は、1月1日の元旦しか休場ではない。
日本は、正月三が日がお休みだから、当然1月2日と3日は東京市場はお休み。
5年振りに、勘が冴えた。
“お、明日(1月3日の祭日)日本銀行が介入するかも知れないな!”と閃いた。
翌朝一人で出社して、日本銀行に電話をすると案の定、皆さん居た!
“明けましておめでとう御座います。”
プラザの時と同じような返事が来た。
“どうしたんですか、酒匂さん、お正月から。”
“え、何だかドル売り介入が出るような気がして、出て来たんですよ。”
“その通りです。介入の手伝いをして下さい。”
たった一人で、暖房も、食い物も、勿論お酒も無い中、夕方まで介入した。
今回は、直ぐにドルが下がった。
その頃は市場は、協調介入の怖さを知っていたから、楽勝であった。
後日、日本銀行の大変偉い方から、“お正月で休日にも拘らずお手伝いを頂き、有難う御座いました。”とお礼を頂いた。 大変、嬉しかった。

この休日の介入のお手伝い、そしてプラザの時の両方とも全く自分の勘で“何か変だ、出社しよう。”とか、“何か変だなあ。介入があるかも知れない、出社しよう。”と行動を起こしたものである。
ディーラー冥利に尽きた、と今でも思う。

あれれ、随分長くなってしまったなあ。

最後に、対ドルで連日高値更新をしているユーロについて書いてみよう。
単一通貨としてのユーロは、1999年1月に発足した。
対ドルで、1.1900.
このレベルが高いか、安いか?
EU15カ国のうち、参加した12カ国の対ドルでの相場を基にしてのスタートであったろうが、我々ディーラーの反応は冷ややかで、
-12カ国の通貨統合? ドイツ国内だって東西、イタリア国内だって南北の国民性、生産性がこれだけ違うのに、そりゃあすんなり巧く行くことは無いだろう。
-あーあ、これでマルク・フレンチ、マルク・ギルダー、フレンチ・リラなどのクロスをやっているディーラーの職が無くなるんだなあ。
と考えて、ユーロを売り続けた。
1年もしないで、対ドルでParity.=(等価。1ということ。)を割り込み、2000年10月に
は歴史的な安値である0.8230を付けた。
その直後に、塾長が役員をやっていた、A.C.I.=(元々フランス語。英語では、 International Dealers Association. 全世界の為替ディーラーの親睦団体。)の会議がパリであり、我々役員は、当時のフランス中央銀行総裁であったトリシェ氏から夫婦共々昼食に招待された。
フランス中央銀行のダイニング・ルームで昼食を頂きながら(美味しかったですよ。ウチのヤツは、今でも今まで食べたフランス料理の中で一番美味しかった、と言っている。)、我々がさつな為替ディーラーは意地悪な質問をした。
“総裁、何処までユーロは下がるんですか? 1.19という発足当時のレートが高すぎたんじゃあないですか?”
トリシェ氏は悠然として、
“今のユーロは売られ過ぎ。君達、ディーラーが売るから多少オーバー・シュートしているが、何れユーロは戻します。”

我々はもの凄くユーロを買い戻した。
2ヶ月で0.96まで戻して、“流石フランス中央銀行の洞察力は凄いなあ!”と思った。
ところが、ユーロの戻しも長続きせず、翌年の夏には再び対ドルで0.83まで下落した。
その後0.93まで上がり、2001年10月には0.90近辺に再び下落した頃、またパリでA.C.I.の会議があり、その時もトリシェ氏に昼食に招待された。
ディーラーはお行儀よくない。
不躾な質問を平気でする。
“総裁、昨年お会いした後、確かに0.96まで戻しましたが、どうやらあれはFalse Movement.=(間違った値動き)だったようです。 やっぱり、ユーロはまだ下がるんじゃあないですか?”
トリシェ氏はまたまた悠然と、
“私は貴方方ディーラーのように、短期的な為替相場の動きには興味が無い。
まあ、何れParity.=(対ドルで1.0)とまでは言わないが、ユーロは上昇すると思いますよ。”

これ全く真実の話です。
ウチのヤツも両方のランチに出席していますから、よく知っています。

いいですか、2001年秋に、現在のECBの総裁が、“ユーロは、対ドルで1.0までは戻るかどうかは知らないが、随分戻すと思う。”と言っていたんですよね。

それが、現在歴史的高値の1.4265.
あの頃から、実に50%以上もユーロは高くなっているんですなあ。
これも、感無量!

あれれ、随分長くなってしまった。
これらのエピソード、あるいはエポックは実は塾長がディーラーをやっていて見聞きしたことの、まだホンの一部。

                大分歳を取ったなあ、と感じる塾長。

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